「無理解」という、最悪最強の敵

仕事で、精神科のお医者さんの本を出すことになりました。
この先生、エッセイのような短文をずいぶん書きためておられて、
地元のコミュニティ誌に寄稿したりしてきたそうです。
それが本一冊分くらいのボリュームになったので、まとめておこう…という話から
私のところにお話がやってきたのです。

この先生の書き物や資料にあたる中で知ったのですが、
イタリアには単科の精神病院がないのだそうです。
(総合病院内の「精神科」は存在します)
もう40年近くも前の話になるのですが、
「精神病患者を病院に縛りつけておくべきではない」という趣旨の、
医療側からの運動が起こり、
それがきっかけとなって精神科病院の全廃が実現したということです。

言葉にすると実に簡単で、あっけらかんとしています。
ですが精神病院がなくなったことで、そこにいた患者さんはどこへ行ったのでしょうか?
…答えは単純で、病院の代わりに各地域に保健サービス網を設け、そこでサポートする形をとったのです。
つまり、病者を病院に隔離するのではなく、地域社会の中で共存する方法を選んだのです。

イタリアというと、メシが旨くて酒が旨くておねえさんはみな美人で
仕事も大事だけど飲んで遊ぶのはもっと大事という、まさにこの世の極楽…というイメージを持ってます。
(もちろん、行ったことないんですけど)
世界に先駆けて精神病院の全廃を果たしたというのも、
いかにもイタリアらしい柔軟さ、奔放さの表れという気もいたします。
そして、まるで牢獄の塔から解放されたごとくの患者たちを
地域が受け入れるというあたりにも、フリーダムな感性を感じたりもします。

でも……。
日本ではどうなんでしょうね?
私は自分がうつを患った経験、さらにはなぜか
私の周囲に精神疾患を持つ人が数人いたということもあって、
精神疾患には拒否反応がありません。
でも、こういう感覚を持つ人は、やはり少数派でしょう。
多くの人は精神疾患とそれを患う人に対して拒否反応を示します。
それは「恐怖」に近いものだと私は感じています。

ですが、それは「幽霊が怖い」というのと同じなんですよ、きっと。
どんなものか得体が知れない、理解できないから怖いんです。
知らない、知識がない、だからよく判らない、判らないから怖い。
そういうことなんじゃないでしょうか?

日本書紀の時代、皆既日食がありました。
人々は突然欠け始めた太陽に恐れおののき、「この世の終わりだ!」と嘆き悲しみました。
中世のヨーロッパで、彗星が現れました。
人々は「魔女だ! ほうきに乗って、魔女が来た!」とパニクりました。
それと同じです。
判ってしまえば何でもないことなのに、
判らないから不安になり、「理解できない」という恐怖を生むんです。
たぶん。

うつをはじめとする精神疾患に対する無理解と、そこから生まれる差別的感覚は
今も根強く残っています。
冒頭の精神科医の先生は、そうした無理解と差別をなんとかしたいと活動してきましたが
「50年戦ってきたけど、何一つ変わらない」と悔しがっていました。
症状の軽い、通院で対応できそうな入院患者の受け皿として、
デイケアホームや自立のための施設を作ろうとすると、
必ずと言っていいほど地元の反対に遭い、計画が頓挫するのだそうです。

誰が悪いわけではありません。
無理解が悪いのです。

現場の医師が50年かけてなお苦戦する強敵を相手に、
何ができるというわけではありませんが…。
せめて当ブログが、たとえデコピンの一発程度であっても、
喰らわすことができればと願うばかりです。

ごめんなさい!コピーはできません。
タイトルとURLをコピーしました