今となっては、もうずいぶんと昔のことです。
古くからの呑み仲間であるA氏と二人、
差し向かいでじっくり呑む機会がありました。
A氏とはその時が一年ぶりくらいの再会で、
差しつ差されつ、和やかに呑みながら
お互いの近況を語り合っていました。
A氏はもともとがサラリーマンでしたので
身の上の状況にさしたる変化があるわけではありませんでしたが、
私は当時、ライターとしていちばん(もちろん今以上に)多忙な時期でした。
次から次へと仕事が舞い込み、交通整理もままなりません。
当然ながら収入のほうも、それなりのものがありました。
今から思えば、当時の私はかなり自慢げに
自分の現況を語っていたんだろうと思います。
ですが私よりもかなり年上のA氏は、
私の話を「うんうん」とうなずきながら聞いてくれて、
そして最後に言いました。
「景気が良くて何よりだ……でもな、忙しさに呑まれるなよ」
は? この人は何を言ってるんだろう?
すぐにはその意味が解りませんでした。
「いいか、『忙しい』という字は『心を亡くす』って書くんだぜ」
……あぁ、そうか。そういうことでしたか。
心を意味する「忄」に「亡」。
「どんなに仕事に没頭しても、心を亡くして何ができる? 何を作れる?」
そうでした。
当時は「何を言ってんだ、このオッサンは」程度にしか考えていませんでしたが、
その頃の私は、心を亡くしかけていたかもしれません。
ですが私は文章を書く、つまりはモノを作るのが仕事です。
心を亡くした人間に、心のこもったモノを作ることができるでしょうか。
人を感動させることができるでしょうか。
長い人生の中の、ほんの一瞬のできごとでした。
当時、他にどんな話をしたのか、今となってはサッパリ覚えていません。
ですが……。
まだまだ景気回復は遠そうなご時世、
「仕事が忙しい」というのはそれだけで僥倖かもしれません。
でも忙しさに呑み込まれて、心まで亡くさないようにしなくちゃぁ……。
私は今でも、そんな思いを心の隅っこに大事に置いています。