「怒り」を抑え込むという過ち

さて、このところ、またまた堅めの話が続いております。

焼肉弁当ブログの面目躍如ですが、ここ数日は気候も良く、
日中はTシャツ一枚で外を歩けるようなゴキゲンな日和ですので、
あまり眉間にシワの寄るような話はふさわしくないかもしれませんね。

とはいえ、一度語り始めた話を途中でぶった切るのもアレがナニですので、
本日も昨日の続きでございます。

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前記事の「なぜ、あなたは『いい人』でいたいのか」の中で
「いい人でいたい理由」を、私は二つ挙げました。
そのひとつである「嫌われたくない」という心理については、
…これはかなり多くの方々に共感をいただけるのではと思うのですが、
すでに前記事でお話しした通りです。

ただ、もうひとつの理由である「怒りを抱くのが怖かった」という感情については、
なかなか、解っていただけないところかもしれません。
ですがこれは、私の幼少の頃にまでさかのぼる、意外と根の深い感情であったりするのです。

私は子どもの頃から「怒り」という感情が嫌いでした。「恐れていた」と言っていいと思います。
怒りは爆発的なエネルギーを持っていて、周囲の人々を傷つけ、不快にし、
そこからは何も生み出されることはありません。
怒りを感じている本人にしてからが不快感の塊になっているわけですから、
誰も得をせず、誰も幸せにしません。

毒ばかりをまき散らし、不快と悲しみばかりを振りまくもの。
「怒り」という感情に対して私が持っていたイメージは、そのようなものでした。
ですから大人になってからも、意識のかなり深い部分で
私は「怒り」を恐れるようになっていきました。
その感情を誰かから向けられることも、
また自分自身が抱くことも、避けようとする習性が身についていったのです。

怒りを向けられない。また、怒りを感じることもない。
どうすれば、それが可能になるのか?
…その答えが「いい人になること」だったのです。

約束を違えられたり、裏切られたりしても「まぁ、人それぞれに事情はあるから」
無理筋の責任論を被せられ、叱責されても「確かに、俺に責任がないわけでもないしな」
理不尽で無茶な業務指示を受けても「確かに大変だけど、自分を鍛えるチャンスだな」

楽天的…というのとは明らかに違います。
本来ならば「いや、それは違う」と言うべき場面でさえも、
「確かにその通りです」と受け入れてしまう。
それが、うつ発症までの私の姿でした。

そして、こんな調子で「いい人」を演じ続けていく間に、
私の心には気づかぬうちに、「抑圧された感情」が澱のように降り積もっていき、
着実にうつ発症へと向かっていったのです。

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